75 縹地錦琵琶袋残欠 より

■正倉院宝物とデザインについて
正倉院宝物は一度に成立したのではなく、何段階かに分かれて成立しており、成立過程も皇室からの献上品、東大寺独自の収蔵品、皇室以外からの献上品と様々である。
もっとも根幹をなすものは、聖武天皇の七七忌に光明皇后が天皇遺愛の品々ならびに皇后に縁のあるものを東大寺大仏に献上したものである。その後も若干の宝物が光明皇后から東大寺に都合五度にわたって献上された宝物は正倉院正倉の北倉に納められ、今日に伝えられている。
光明皇后が五度にわたって東大寺大仏に献上した時に副えられていた献物帳には、①国家珍宝帳 ②種々薬帳 ③屏風花氈等帳 ④大小王真跡帳 ⑤藤原公真跡屏風帳がある。「国家珍宝帳」とは正式に「東大寺献物帳」と呼ばれるべきものであるが、この献物帳の冒頭に「太上天皇の奉為に国家の珍宝を捨して東大寺に入るる願文」との文言による。
中倉、南倉の宝物には東大寺の千手堂や東小塔などに保管されていた宝物や元々東大寺に保管されていたもの、儀式に使用されていた宝物、献上物を入れた箱類がある。
これらの宝物に使われている文様を再現したのが天平文様シリーズである。

75 縹地錦琵琶袋残欠(はなだじにしきのびわのふくろざんけつ)(南倉103)
この錦は形からもおよそ察せられるように、もと楽器の琵琶を入れていた袋で、これはその背面(琵琶の槽に接する部分)の残欠である。このほかに、琵琶の表面を保護する部分と、覆手・絃部分の覆いの残欠、および袋の縁周りの残片数片があり、さらに東京国立博物館に転手を包む部分の残片が所蔵されていて、すべて本図と同文様の錦製である。
また宝庫には右の表・背・縁の各部分に対応する白絁と白氈も保存されている。つまりこの袋は、外面に錦、内面に白絁、その間に、器体保護のために白氈を入れるというずいぶん丁寧な作りだったが、経年の間にバラバラになってしまったのである。ちなみに東京国立博物館所蔵の残片は、明治九年(1876)に内務省の建議により、宝庫から同省所管の博物館等に配られた古裂中のものと考えられている。
さてこの錦は綾組織の緯錦で、鮮やかな縹地に、白、黄、緑、深緑、赤、紫で、径約52cmにおよぶ大集花文を主
文とし、それと対照的に可憐な花葉繋ぎの菱形文様を副文として配している。このような集花文は、通常、唐花文と呼ばれていて、中国において名のごとく初唐ころに創案され、以後盛唐期へと、しだいに発達成熟してきた文様である。ペルシャ式の硬く剛直な文様に対し、種々な花葉が重なり合いふくよかさがあるところから、わが国民性にも違和感なく受け入れられ、上代染織文様中、最も流行することとなった。この錦の唐花文は、それらのなかでも、規模の大きさ、文様の復雑さ、用彩の豊富さなど、すべての面でとくに傑出した優作である。
つぎにこの錦の織幅だが、当時の錦の通常の一幅が1尺9寸 (現在の約56cm)なのに対し、これは主文の幅がすでに53cmに達している上に、副文の中心部が完全に現われている。したがってこの錦は、最小限でも、中央に副文、その左右に主文二窠が併列し、織幅も通常の二倍におよぶものであったと考えられる。
以上のような諸特質よりみて、この錦が唐製であることはまず疑いなく、さらにこの袋以外に同文錦の類裂が全く発見されないことからして、唐土においてすでに袋に仕立てられ、中身の琵琶とともに船載された可能性もなしとしない。
この袋の入庫の経緯は不明だが、建久四年(1193)の東大寺勅封蔵目録記(上巻)に「琵琶一面在錦袋」および「椙
辛櫃五十八合…·一合納紫檀琵琶一面、琴一張巳上錦袋」とみえ、当時宝庫に琵琶を納める錦の袋が二口あった。しかしつぎの慶長十七年(1612)の東大寺三蔵御宝物御改之帳には「し長持壱ツ……壱ツ唐織之琵琶袋」とあるのみで、ニロ中一口はすでに記載がなく、もう一つの方も本体の琵琶と離れてしまっていた。そして以後、元禄、天保と続く宝庫開検記録によれば、江戸時代を通じて、その状況は変ることなく引き継がれている。したがって、これらの記録にいうところの『唐織之琵琶袋」が、すなわち本件にあたることは疑いないが、反面これが現存のどの琵琶の袋であったかはわからない。ちなみにここにいう「唐織」とは、唐風の珍しい錦という程度の意味であろう。
75 縹地錦琵琶袋残欠 より
円(税込)